ランニング中、綺麗な景色に出会って思ったこと
昨日に引き続き、ランニングをした。持ち物は、家の鍵だけ。
昨日近所に住む先輩に誘われて、ランニングがてらみなとみらい散策をしたらこれがまた、超気持ちよかったのだ。だから、即リピート。笑
綺麗な夜景を見ながら、普段は行かないみなとみらいのウラの顔に出会える。
それでいて人は少なく、落ち着いた雰囲気。こんな場所をランニングコースにできるなんて、なんて恵まれた環境だろうか。幸せな気分。
さらに、ランニングをしている時はぼーっとできる。テキトーに、さっき起きた出来事や見た番組のことを思い出したり、これからのことを妄想してみたり。
新しく出会った場所や景色に惚れ惚れもする。
でも、スマホを家に置いてきているから、めちゃくちゃストーリーで自慢したい綺麗な景色も写真には残せない。歯がゆい気持ちにもなるが、これは現代人が忘れかけている感覚かもしれない。
スマホを手放せない我々が考えるべきこと
いいものを見つけたらすぐにカメラを向ける。そして、その景色自体に大して黄昏ることもなく、いい写真が撮れたら移動する。
一緒にどこかへ行っても、そういう友達が多い。
私はストーリー女だから、もちろん「いい写」をスマホに収めて残したいし、共有もしたい。でも、カメラ越しではなく自分の目に、頭にもしっかりと焼き付けたい。だから、海や、星空などをみに行くと、いつも一緒にいる人から「そろそろ行こっか」って言われて、名残惜しくなる。もっと無心でその空間にいたい。その空気感を味わいたい。なんならそこで寝て、朝を迎えるぐらいがちょうど良い。だからこそ、1人で旅をするのかもしれない。
そこで、最近よく疑問視している人もいるのだが、私自身も陥っていることがある。
それは、旅をする時。一般的には、旅行雑誌やインスタグラム、ブログなどで行き先の写真を見て、「この建物綺麗だね!行ってみよう!」ってなることが多いのではないか。そうやって、旅行の計画をしっかり立てる人はすごいし、計画性があって効率の良い旅ができると思う。そういう旅もありだ。私は逆に無計画で出発してしまうせいで、不安な時を過ごしたり、ホステルのベットの上でスマホとガイドブックを開き行き先を決めるという時間を、向こうで無駄に使ってしまったという失敗談もある。
でも、本当の意味での”旅”の魅力って、「未知との遭遇」ではないか。
私は、「なんでそんなにいろんなところに行くの?」って聞かれたら、そう答える。
「自分の知らない景色に出会いたいから」
その瞬間って、本当にワクワクするのだ。胸が踊るっていうのを、私が一番体感できる時。
例えば最近行ったヨーロッパひとり旅では、一番それを感じたのはシャンゼリゼ通りだと記憶する。
出発の4日前くらいに目的地をバルセロナに決めて航空券をとった。その当初はバルセロナからバレンシア、マラガ、マドリッドなどを回りスペインを掘る旅にするつもりだった。
でも、向こうに着いて、どこに行こうか考えて、いろんな人にオススメの場所を聞いて、調べて、、、ってしてたら疲れた。しかも、ガイドブックの写真とか情報、インスタグラムでの写真などをみただけで満足してしまうことも。
元はと言えば「バレンシアがめっちゃいいよ」って聞いて、バレンシアに行きたくてバルセロナから入ったはずなのに、向こうで調べて、あんなに分厚い地球の歩き方の1/3ページにちっちゃくしか紹介されていないバレンシアにはあまり魅力が感じられなくなってしまった。
そして結局、ベターにヨーロッパの主要都市巡りの旅に切り替えた。
多分、そんなに深く調べないでバレンシアにとりあえず行っていたら、その落ち着いた雰囲気や小さな街並み、人の優しさなどに出会って感動していたのだと思う。
でも、安心を求めて調べすぎた結果、バレンシアの未知には出会えなかった。
一方で、1人の寂しさを感じないように、毎日都市を移動する旅に切り替えた結果、それぞれの街をたいして調べる時間はなかった。
話すと長くなるので今日は抑えて、パリの話だけちょこっと。
パリでの「未知との遭遇」
とりあえず有名どころを軽く触るというコンセプトに変えたため、パリでは王道の「ルーブル美術館」「凱旋門」「エッフェル塔」をみに行った。まずルーブル美術館についたのは夕方6時ごろ。すでに閉館してしまっていて、中には入れない。しかも次の日も、火曜日で休館だった。だから、せっかくのルーブル美術館なのに作品を見て回ることはできず、建物をみて黄昏た。
それからテキトーに歩いていたら、ズーーーット先まで続く綺麗にまっすぐな道を発見。その先には大きな門が見え、周りは神々しく光っていた。
「え、もしかしてあれって、凱旋門じゃね?!」
って思って調べたら、その通りだった。そのまっすぐな道は、凱旋門の手前から、「シャンゼリゼ通り」。この瞬間、猛スピードで歩き出した。その長く続くまっすぐな道を、ひたすら進んだ。気持ちが昂りすぎて、訳も分からず走り出してしまった。1人なのに、「♪オ〜〜〜シャンゼリーゼーー」の鼻歌がこぼれてしまうくらい、そのくらい興奮していた。
これは、私がシャンゼリゼ通りや凱旋門のことをほとんど知らなかったからだ。
無論、「シャンゼリゼ通り」という単語は知っていたし、その歌も頭に刻まれている。しかし、実際にシャンゼリゼ通りがどのような通りかは知らなかったし、見たこともなかった。だから、”未知との遭遇”だったのだ。この時の胸のドキドキは、あの2週間の旅の中で一番っていうくらい印象深いし、今その時を思い出しただけでもドキドキする。

シャンゼリゼ通り、凱旋門へと続くまっすぐ長い道

凱旋門のルーフから見たシャンゼリゼ通りとエッフェル塔

ルーブル美術館とよくわからないオブジェと噴水
具体例が長くなってしまったが、これこそが、旅の醍醐味だと私は考える。
しかし実際に現代人がしている旅は、事前に調べていた場所、見た写真の確認作業だ。「パリってこんなところだったのか!」じゃなくて、「口コミサイトでみんなが言っていた通り、このお店のフレンチコースは美味しいな」という感想になる。
「写真で見た以上に綺麗だ〜!」とか、「写真で見た建物の周りにはこんなお店があるのか〜!」「想像よりでかいな!」といった発見はある。でも、それでは何かが違う気もする。
とはいえ、そんな旅も楽しい。と、正直私は思う。この前の旅でも、調べてから言ったところも楽しかったしワクワクした。
だけど、ぶらり途中下車の旅みたいに、行き先を決めず、直感で気になった場所に降り立って歩いてみる旅では違う楽しさがある、ということだ。(もっとも、安全な日本国内だからできることかもしれないけれど。)
”ぶらり途中下車の旅”的オモシロさ
自分の住んでいる街とは違う駅の作り。建物の形。並ぶ飲み屋の雰囲気。歩いている人々。地面。看板。全ての場所は違う個性を持ち、唯一無二である。
それを体感しに行くのが、面白いのである。
「東横線沿いぶらり途中下車の旅」は、私の中でたまに開催されている。
神社に公園に、池のあった妙蓮寺駅。大きくて森のような公園に、古墳の跡地、そして広い河川敷のある多摩川駅。住む人からすれば何もない街だとしても、私にとっては目新しいものお宝庫だったりするのだ。道端に小さく佇む個人経営の居酒屋には、すっごく入りたいと思う。

妙蓮寺駅で出会った大きな池
おしゃれなお店や富裕層のマダムたちの多い自由が丘駅。気になる可愛いお店や美味しそうなパイ専門店。線路をイメージした小さめな商業施設。さらに奥まで歩くと、大きな家と高級車の止まる住宅街に。いろんな顔を持つ街。歩き出すと、止まらなくなる。
このように、旅にもいろんな仕方がある。
でも次にする旅は、スマホを置いて、気分と直感に任せて電車に乗ることから始めるのもいいかもしれない。
はあ、旅がしたい。
お金ないけど、一日暇な日ができたら、そんなぶらり旅をしよう。
そういう思いに行き着いたところで、この投稿は締めます。笑
最初書き出す時に描きたかったことと、全然違う結末にたどり着いてしまった。。
書き出すと描きたいことが止まらなくなってしまいます笑
眠いけど、他にも描きたいことが浮かんでるから、忘れない今のうちに。
このまま次の投稿かこーっと。見てね。