本の書き方
この本は、最初の意味段落①で、女と男が出会うことから始まる。
でもその出会いは非常に不確実である。
これは現実なのか、それとも仮想現実か。
”もしかしたら、あっちはこっちのパラレルワールドなのかもしれない”
それを確かめることはできぬまま、急な別れがあって、場面はガラッと変わりシーン1へ。
科学的な、専門用語的な難しい言葉がたくさん出てくるのでここを読むのは一苦労だが、そこはあまり神経を立てずにさらっと読むようにする。
そこは全く関係のない話かと思えば、急に、主人公が想い人と再会するのだ。
ここから物語は、2つの、真逆の世界を交互に語りながら進んでゆく。
さらには、主人公の敦賀崇史を一人称で使うか、三人称で使うかというところでも交差している。
「俺」つまり崇史本人の視点か、はたまた「崇史」「彼」で述べる第三者からの視点か。
しかしこれは、普通に読んでいてそんなに大きく気になる変更ではない。
三人称でも、この場合はおそらく一元視点というものだと思うが、崇史本人のことを本人が語るようによく知っていて、気持ちまで明確に述べられるからだ。
この本のテーマ「愛か、それとも友情か」
このテーマはよく論じられるものであり、永遠のテーマだろう。
この問題が重くなるのは大人になって恋愛した時かもしれないが、これが起こりやすいのはやはり学生だ。
子供の頃は、学校という小さなコミュニティーの中で生きている。だから、友達の元彼と付き合うなんてことはよくあった。1人の男の子のことを好きな女の子がクラスに何人かいたり。
皆さんは、こういった経験があるのだろうか。
しかし私は今まで経験したことがない。
だから、本書を読みながら色々考えてみた。
私が今心から親友と呼べるのは、1人か2人。
これが少ないのかはわからないけれど、子供の頃から幾度かの喧嘩も乗り越えて本気でぶつかってきた友達って、格別だと思う。
これから先社会人になって出会う人というのは、大人として節度をわきまえたり、適度な距離感を考えたりしながら関わる。その中で、本音で話せて尊敬できて、喧嘩しても仲直りしたいと思えるほどの関係は作れるものなのだろうか。
友情というものは、じっくりじっくり作り上げられる宝物である。
失ってしまえば、なかなか代わりを見つけられるものではない。
それに比べて恋愛は、非常に儚く繊細なものだ。
ちょっとしたズレやほころびにより、壊れてしまうこともある。
だからまだ20年しか生きていない今の私だったら、友情を選ぶかもしれない。
でも、これが結婚に焦ってくる30歳半ばだとすると、恋愛を取りそうな気もする。
今は彼氏がいなくてもまだいいが、親友にはいてもらわないと困る。
そしていずれは逆の想いになることもあると思う。
この本の場合、「親友を裏切り恋人を奪う」か、「親友を失い恋人とも結ばれない」か。
もしくは、「親友と恋人の両方を手に入れる」か。
最後のどっちも手に入れられる、っていうのは理想のはハッピーエンドだが、しかし実際はどちらへの思いも本気だからこそそれは非現実的になる。
本書でのその実現方法は、どちらか、もしくはみんなに”記憶改編”をさせることだ。
しかし、このストーリーではそれをしようとして失敗してしまう。
やはり、科学が発達する今現代でも、人の感情や気持ちに入り込むにはまだ至っていないのだ。
科学では説明できないことはまだまだ存在する。
AIが進む世の中でも、やはり人間の脳は絶対的なものなのである。
さらには、恋愛というのは人間を非常に弱くする。
どうしたものか、恋をすると、人は盲目になったり、自分を制御できなくなることがあるのだ。
頭では、つまり理性では「親友を裏切れない」とわかっているものの、感情が抑えきれない。
消したくても、このどうしようもない彼女への愛情はおさまらない。
そうやって、人は恋してゆくのだ。
恋愛とは人間にとって、もしくは生物にとって、非常に特別なものなのかもしれない。
ぜひ、この一味違ったミステリーを読んでいただきたい。